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高松高等裁判所 昭和42年(ネ)19号 判決

主文

原判決および松山地方裁判所昭和四〇年(手ワ)第八八号約束手形金請求事件の手形判決はいずれもこれを取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の法律上および事実上の主張は、左のとおり付加訂正するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、その記載をここに引用する。

(控訴人の主張)

一  本件約束手形についてなされた訴外三栄電機株式会社(以下、訴外会社という)から訴外土井昭雄を介して被控訴会社への裏書の原因関係は、被控訴会社の有する実用新案第七二五、九四四号トラスト(写真入り)名刺に関する実用新案権四国四県一円における専用実施権にもとづき、訴外会社に対し、金四〇〇万円の対価で愛媛県全域におけるその実施権を許諾する旨の実施許諾契約であつたが、右実施許諾契約は要素の錯誤によつて無効であるから、被控訴会社は本件手形上の権利を有効に取得したものとはいえない。すなわち、本件実用新案権の権利範囲は、営業取扱品の図柄・写真等を姓名の掲載欄外もしくは裏面に表示した名刺の構造であつて、人物写真を名刺に表示することはその権利範囲に含まれておらず、右人物写真入りの名刺に関する実用新案権は昭和一〇年ごろ登録されたのち、期間の経過によりすでに消滅してしまつていたものであるが、本件実施許諾契約の締結に際しては、被控訴会社代表者から訴外会社代表者に対し、右実用新案権の権利範囲には人物写真の表示された名刺を製作販売することも含まれているとの説明があつたところから、訴外会社としては、人物写真入りの名刺は何びとでも自由に製作販売することが許されたものではなく、本件実用新案権の実施許諾を得ることによつてはじめてなしうるものであると誤信するとともに、そのような人物写真入りの名刺の製作販売を可能ならしめる権利として右実用新案権の実施許諾を得たのである。しかるに、前記のとおり、当時人物写真入りの名刺の製作販売は何びとも自由にこれをなしうる状況にあり、本件実用新案権の実施権を取得することによつてはじめてそのような名刺を作ることが許されるというわけではなかつたのであり、しかも、右実用新案権の権利範囲が前記のごとく狭いものであることを知つていたならば、何びとも四〇〇万円もの大金を投じてその実施許諾を得るようなことはしなかつたはずであるというべきであるから、本件実施許諾契約は要素の錯誤によつて無効といわなければならない。

二  かりに右契約について要素の錯誤がないとしても、被控訴会社は、本件実用新案権の権利範囲に人物写真入りの名刺の製作が含まれていないことを知悉していながら、あたかもこれが含まれているかのごとく訴外会社に申し向けてこれを欺き、その旨誤信した訴外会社をして本件実施許諾契約を結ばせたものであるから、右契約は詐欺によるものである。そこで訴外会社は、昭和四二年一月五日被控訴会社に対し、詐欺を理由に本件実施許諾契約を取消す旨の意思表示をなし、該意思表示はそのころ被控訴会社に到達したものである。

(被控訴人の主張)

一  本件実施許諾契約は、訴外会社に実用新案公報を示して、それに記載してあるとおりの権利内容を有する本件実用新案権についてその実施を許諾したものであつて、人物写真入りの名刺の製作がその権利範囲に含まれることをもつて契約の内容としたものではないから、かりに訴外会社が控訴人主張のごとく誤信して右契約を締結したものとしても、それは単なる動機の錯誤であつて、要素の錯誤にはあたらない。

かりに要素の錯誤にあたるとしても、本件実施許諾契約は、前記のとおり実用新案公報を示してなされたものであつて、これを一読すれば、本件実用新案権の権利範囲が営業取扱品の図柄、写真入りの名刺の構造のみであつて、人物写真入りの名刺がこれに含まれないことは容易に了解しえたはずであるから、訴外会社において控訴人主張のごとく誤信して本件実施許諾契約を締結したものとしても、同会社に重大な過失があるというべきである。

二  かりに右契約に要素の錯誤があるとしても、それは、本件手形の裏書の原因関係に無効原因があるというだけのことであつて、無因債権である手形債権そのものは、原因関係の存否、有効無効にかかわらず裏書によつて当然に被控訴会社へ移転したものといわなければならないから、控訴人の右主張はそれ自体失当というべきである。もつとも、原因関係上の事由といえども、手形授受の直接の当事者間においてならば、いわゆる人的抗弁としてこれを主張することができないわけではないけれども、控訴人は本件手形の振出人、被控訴人はその第二裏書の被裏書人であつて、直接その間に手形の授受は行なわれていないのであるから、訴外会社ならば格別、控訴人が右のごとき錯誤の主張をして本件手形金の支払いを拒むことは許されない。

(控訴人の反論)

実用新案公報の記載は一般人にはきわめて難解であるから、訴外会社が右公報を示されながら前記のごとき錯誤に陥つたものとしても、それ故に同会社に過失があるとはいえない。

証拠関係(省略)

理由

一  控訴人が訴外会社宛に被控訴人主張のごとき約束手形一通(以下、単に本件手形という)を振出し、同手形が訴外会社から訴外土井昭雄に、同訴外人から被控訴会社に順次裏書譲渡され、被控訴会社が現にこれを所持していることは当事者間に争いのないところであるので、以下、控訴人主張の抗弁について順次判断することとする。

二  まず、本件手形がいわゆる融通手形として振り出されたものであるとの主張ならびに訴外会社に本件手形を裏書譲渡する具体的意思がなかつたとの主張がいずれも理由のないものであることは、原判決理由中の説示(原判決四枚目裏五行目初から一〇行目終までおよび同五枚目表四行目の「また、」から八行目終まで)のとおりであるから、それをここに引用する。

三  次に、本件手形の裏書の原因関係である本件実施許諾契約が要素の錯誤によつて無効であるとの主張について考える。この点につき被控訴人は、本件手形の振出人である控訴人が、自己の後者である訴外会社、土井昭雄から被控訴会社への裏書の原因関係の無効を主張してその手形金の支払いを拒むことは、手形裏書の無因性からいつても許されないというけれども、自己の債権の支払確保のため約束手形の裏書譲渡を受け、その所持人となつた者といえども、その裏書の原因関係が無効であつたり、消滅したりして、手形の支払を求める何らの経済的利益も有しなくなつたときは、特別の事情のないかぎり爾後右手形を保持すべきなんらの正当の権原を有しないことになり、手形上の権利を行使すべき実質的理由を失つたものというべく、したがつて、その所持人がたまたま手形を返還せず手形が自己の手裡に存するのを奇貨として、自己の形式的権利を利用して振出人から手形金の支払を求めようとするがごときは、権利の濫用に該当し、振出人は、手形法七七条、一七条但書の趣旨に徴し、所持人に対し手形金の支払を拒むことができるものと解するのが相当であるから(最高裁判所昭和三八年(オ)第三三〇号同四三年一二月二五日大法廷判決民集二二巻一三号三五四八頁参照)、控訴人の右抗弁をもつて主張自体理由のないものということはできない。

しかるところ、成立に争いのない甲第一号証、同第二号証の一、原審での被控訴会社代表者本人尋問の結果により成立の真正を認めうる同第三号証、第四号証の一、二成立に争いのない同第五号証の一、二、第七号証、原審および当審証人土井昭雄の証言により成立の真正を認めうる乙第一、第二号証の各一、二、右証言および当審での被控訴会社代表者本人尋問の結果(第一回)により成立の真正を認めうる乙第五ないし第七号証、成立に争いのない同第八号証、弁論の全趣旨により成立の真正を認めうる乙第一〇号証の一、二、官署作成部分については成立に争いがなく、弁論の全趣旨によりその余の部分の成立を認めうる同号証の三、原審および当審証人土井昭雄、原審証人土井一の各証言ならびに原審および当審(当審では第一、二回)での被控訴会社代表者本人尋問の結果を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一)  本件実用新案権は訴外トラスト名刺株式会社がその権利者であるところ、同会社は昭和四〇年一月二四日卯目好隆に対し四国四県一円における専用実施権を設定する旨の契約を締結し、同人を代表者とする被控訴会社が設立されるや、あらためて同会社に右専用実施権を設定した。

(二)  ついで被控訴会社は同年四月三〇日、右専用実施権にもとづき訴外会社に対し、金四〇〇万円の対価で愛媛県全域におけるその実施権を許諾する旨の実施許諾契約を締結し、訴外会社はそのころ、右対価の支払いのため、金額二〇〇万円、振出日同年五月一五日なる先日付小切手一通および金額二〇〇万円、支払期日同年七月三一日なる約束手形一通を振出しこれを被控訴会社に交付した。

(三)  ところが、被控訴会社が同年五月二四日右小切手を支払いのため呈示したところ、これを拒絶せられるにいたつたので、被控訴会社から訴外会社に対し、右小切手の代りに、信用ある第三者振出の手形を入れるよう要請し、かくて翌二五日、訴外会社代表者土井一の息子で本件実施許諾契約に関して一切を任されていた訴外土井昭雄の友人である控訴人が、同訴外人からの依頼を受けて本件手形を訴外会社宛に振出し、同訴外人が保証責任を負う趣旨で裏書をしたうえこれを被控訴会社に交付した。

(四)  ところで、訴外会社の代表者土井一と同会社の代理人の立場にあつた前記土井昭雄との両名が被控訴会社との間において本件実施許諾契約を締結するに際しては、人物写真を名刺に表示することも本件実用新案権の権利範囲に含まれるものであつて、人物写真入りの名刺の製作販売は右実用新案権の実施権を有する者のみがこれをなしうるものと考えるとともに、かような実用新案権を得たうえ、かなりの利益が予想される人物写真入り名刺の販売業をあらたに始めようと考えて右契約の締結に及んだものであるが、本件実用新案権の権利範囲は、現実には、営業取扱品の図柄、写真等を表示する名刺の構造のみに限られ、人物写真を表示する名刺については昭和一〇年ごろ実用新案の登録がなされたのち、期間の経過によりすでに権利が消滅しており、したがつて、本件実施許諾契約締結当時においては、人物写真入りの名刺は何びとにおいても自由にこれを製作し販売することができる状況にあつた。

以上のような事実が認められるのであつて、右事実関係からすると、訴外会社から前記土井昭雄、同人から被控訴人への本件約束手形の裏書の原因関係は、訴外会社と被控訴会社との間で締結された右実施許諾契約であること、その実施許諾契約の締結に関して訴外会社側に錯誤があつたことはいずれも明らかであつて、ただ、その錯誤は実施許諾契約自体についての錯誤ではなく、契約を締結するにいたつた動機における錯誤であるといわざるをえないのである。

しかしながら、いわゆる動機の錯誤といえども、表意者がその動機を相手方に表示した場合には、その範囲内で法律行為の内容の錯誤となるものであるから、その表示された動機が当該法律行為の重要な部分を成すかぎり、要素の錯誤として法律行為の無効を来たすものといわなければならない。そこで本件の場合、前記動機が表示されて本件契約の内容となつていたかどうかについて考えるに、前記各証拠によれば次のごとき事実が認められるのである。

(一)  被控訴会社代表者卯目好隆は、訴外会社との間で本件実施許諾契約を結ぶに先立つて同会社代表者らに対し本件実用新案権の内容を説明するにあたり、実用新案公報とともに数枚のカタログ、見本用名刺を示すとともに、本件実用新案権によつてこのような名刺を作ることができるようになつた旨を言明したが、右カタログに見本として掲載されている名刺はすべて、その表面に人物の顔写真を表示したものであつた。

(二)  右契約の締結にさいして被控訴会社より訴外会社に交付された販売特約店向けの案内書(乙第八号証)には、本件実用新案権にもとづいて製作されるトラスト(写真入り)名刺の特徴として、(イ)顔と名前を一致して覚えてもらえる、(ロ)、自己を印象づけることができる、(ハ)、自分の名刺であるという保証付き、(ニ)、名刺に自己の写真が入つているので非良心的行為にブレーキがかかる、などの点があげられていた。

(三)  被控訴会社の代表者卯目好隆は、原審においてはもちろん、当審での第一回目の本人尋問においてすら、人物写真入りの名刺の製作販売が本件実用新案権の権利範囲に含まれる旨を繰返し供述していた。

以上のごとき事実が認められ、当審での被控訴会社代表者本人尋問の結果(第二回)中右認定に反する部分は採用し難く、他にこれを覆えすにたりる証拠はない。しかして、右認定のような事実関係からすれば、本件実用新案権の権利範囲には人物写真を表示した名刺の製作販売も含まれ、したがつて、かような名刺は、右実用新案権の実施権を有する者でなければこれを製作し販売することはできないものと訴外会社代表者らにおいて考え、かつ、そのような権利内容を有する実用新案権として右代表者らがその実施許諾契約を結ぶものであることは、被控訴会社代表者においても十分に認識していたものと認めるのが相当であつて、右の動機は表示されて本件契約の内容となつていたものといわなければならない。本件実施許諾契約について作成された契約書(甲第五号証の一、二、乙第三号証の一、二)にはなんら右の点に関する記載が存在しないけれども、そのことが右認定の妨げとなるものでないことはいうまでもないところである。そうすると、訴外会社代表者に存した前記錯誤は、単なる内心の動機の錯誤であるにとどまらず、本件実施許諾契約の内容の錯誤であるといわなければならず、しかも、本件実用新案権の権利範囲が前記認定のとおりのものであつて、人物写真入りの名刺には及ばないことを訴外会社代表者らが知つていたならば金四〇〇万円の対価で本件実施許諾契約を締結しなかつたであろうことは当審証人土井昭雄の証言によつて明らかであるばかりでなく、通常一般の人もまた、そのような契約を締結するはずがないことは容易に推認できるところであるから、右の錯誤は本件契約の重要な部分について存するものというべく、したがつて、民法九五条にいわゆる要素の錯誤にあたるといわなければならない。

ところで被控訴人は、右錯誤については表意者に重大な過失があると主張するので、つぎにこの点について検討するに、本件契約の締結にさいして被控訴会社代表者が訴外会社代表者らに対し、本件実用新案権に関する実用新案公報を提示したことは前記認定のとおりであつて、右公報の記載を仔細に検討しておれば、右実用新案権の権利範囲に人物写真を表示した名刺の製作販売が含まれないことを察知できなかつたわけではないと考えられるけれども、右公報に記載された「実用新案登録請求の範囲」は、「本文に記載したように姓名等表記1を具えた紙片2の紙表面3に営業取扱品の図柄、写真等の表示4を姓名等表記1の掲載欄外に設けると共に紙片2の紙裏面3′に営業品図柄、写真等の表示部4′を設け、かつこれに付加して営業内容を記載した営業案内あるいは製品の種類の製品目録等の表記4″を配列して設けて成る名刺の構造。」というものであつて、一般人、ことに電気器具の販売業を営んでいた訴外会社代表者などにとつてはすこぶる難解であり、容易にその内容を捕捉することができないばかりでなく、同公報の「考案の詳細な説明」の欄には、複雑化の傾向をもつ現代の社会関係の下においては、一片の名刺によつて人物および営業性格を相手方に記載せしめておくことは困難であり、相手方に手渡した名刺の氏名から人物等を連想させることは不可能であつたが、本考案によつてこれを容易ならしめることができる旨のまぎらわしい記載が存するのであつて、これらの点をもあわせ考えるならば、専用実施権者たる被控訴会社において、本件契約にさいして前記のとおり実物を示して本件実用新案権の権利内容を説明した以上、訴外会社において右実用新案公報を精査しなかつたからといつて、必ずしも重大な過失あるものと認めることはできず、しかも他に、同会社に重大な過失ありと認むべき事情はなんら存在しないのである。

四 以上のとおりであるとすると、前記裏書の原因関係である本件実施許諾契約は要素の錯誤によつて無効であるといわなければならず、なんら特別の事情の認められない本件においては、被控訴会社は本件手形を保持すべきなんらの正当の権原も有しないものというべく、裏書によつて取得した右手形上の権利を行使すべき実質的理由を欠くものといわなければならない。

したがつて、たまたま右手形が自己の手裡に存するのを利用して、振出人である控訴人に対してその手形金の支払を求める被控訴人の本訴請求は、前説示のとおり権利の濫用にあたるものであつて、控訴人はその支払を拒むことができるというべきである。

五 すると、被控訴人の本訴請求は失当であり、これを認容した原判決および松山地方裁判所昭和四〇年(手ワ)第八八号約束手形金請求事件の手形判決はいずれも不当であるから民訴法三八六条によりこれを取り消すこととし、被控訴人の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき同法八九条、九六条を各適用して主文のとおり判決する。

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